これからの水素社会を考える

トヨタ自動車株式会社
MS製品企画 ZS チーフエンジニア
田中 義和

元レーシングドライバー
株式会社インタープロトモータースポーツ
代表取締役
関谷 正徳

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20年以上を費やしたFCEVの開発

関谷さん(以下関谷):僕がMIRAIを購入したきっかけは、十数年前にイベントでクルーガーがベースのFCEV(燃料電池自動車、以下略)に乗ったことだったんですが、そもそもトヨタはいつからFCEVの開発しているのですか?

田中チーフエンジニア(以下田中):FCEVの開発が始まったのは、1992年のことです。水素は豊富にありますし、BEV(電気自動車、以下略)と比較したときに充填時間が短くて、エネルギー密度もいいので、航続距離も長くできる。トヨタ自動車では“適時・適地・適車”という考え方がありますが、水素だけでなくバイオ燃料など、これまで時代に応じてさまざまな研究開発を行ってきました。関谷さんが乗られたクルーガーがべースのモデルは2002年に作ったもので、特別認可をとって公道走行できるようにして総理官邸に納車しました。そうした実証実験などを繰り返してきて、1つの集大成として2014年末に世界初の量産型FCEVの市販モデルとなる初代MIRAIを発売したというわけなんです。

関谷:実は初代のMIRAIも買いたいとは思っていたんです。ただ当時は自宅の近くに水素ステーションがなくて、購入には踏み切れなかった。昨年ようやく近所にステーションができて、ほぼ同じタイミングで二代目のMIRAIが発表されたので、迷わずこれにしました。

田中:水素ステーションはほぼ計画通りに整備していただいているのですが、とはいえお客様からすれば、まだまだ少ないというご不満もあると思います。初代を市場に投入した当時は、とにかく水素社会に向けた第一歩を踏み出したいという想いがありました。もちろんクルマは水素社会におけるone of themであり、切り込み隊長みたいな役割だと考えていましたが、当時はまだ技術的に数を作るのが難しかったんです。当初は年間700台くらいしか作れなくて、日本国内で3年待ちくらいのオーダーを頂き、ご迷惑をおかけしてしまいました。

関谷:そうでしたね、納車待ちの長い行列ができていたという話は聞いたことがあります。ただ数がつくれないと普及しないし、また水素ステーションなどインフラの拡充にもつながりませんよね。

田中:おっしゃる通りで、そこで初代は途中から年間700台を、年間3000台まで生産体制を増強しました。それでもグローバルで年間3000台ですから、決して多いとは言えません。二代目のMIRAIを発売した目的の1つとして、数を出すということがあります。お客様からオーダーをいただいてもつくれないと意味がないわけですから、ユニットも設計し直しましたし、工場のラインもすべて引き直しました。そして今は10倍の、年間3万台まで生産能力を一気に引き上げました。

関谷:10倍はすごいですね。確かに、私もオーダーしてから数週間で納車されました。水素ステーションもまだ地方まで満遍なくとはいきませんけど、東京をはじめ都市部では結構増えてきたなと思います。ただ、水素は怖いものという間違ったイメージを抱いている人も多いようにも感じますね。

水素は怖いもの、ではない。

田中:そうなんです。もうずいぶん前の話ですが、お店で忘年会をやったときにカセットコンロではなくて、小さなガスボンベをガスコンロにつないで鍋をしていて、近くに石油ストーブが置いてあった。これって冷静に考えれば、相当に危ないシーンですよね(笑)。ただ、プロパンガスというものは、多くの人にとって生活に密着し、身近で馴染みのあるもだからあまり危険性を感じない。一方で、水素は、まだ身近なものになっていない。だから、「危険なのではないか」というような様々なイメージが抱かれている状況なのだと思います。そういう意味でもMIRAIによって、水素が「特別に危険なものではない」ということを多くの人に知っていただけたら、大きな意味があると思うんです。

関谷:水素というものの認知や社会需要性を高めていくためには、MIRAIのような乗用車だけでなく、技術の転用も必要だと思います。東京の市街地では「FUEL CELL BUS」と書かれた燃料電池バスを見かけることもありますが、そのあたりはどうなっているのでしょうか。

田中:FCバスの「SORA」ですね。そもそも東京オリンピック・パラリンピックに向けて、東京を中心に導入されたものです。商用車をゼロエミッションで走らせるには、「大きなバッテリーを搭載できるんだからBEVでもいいじゃないか」と言われることもあります。でもバッテリーをたくさん積めば積むほど、重くなって充電時間が長くなる。そういう意味で大きな商用車ほど水素は親和性が高い。短い充填時間で長距離を走行できますし、走行ルートも限られているので、水素ステーションも計画的に配置しやすいというメリットもあります。

関谷:なるほど。たしかにモーターは低速域から大きなトルクが出るわけで、重い荷物を運ぶのに向いているわけですね。

田中:そうなんです。一部のコンビニエンスストアさんの集配トラックでFCトラックを活用頂く動きがありますが、商用車はいかに多く稼働させるかが重要なんですよね。コンビニは24時間営業なので、トラックはドライバー交替しながら1日20時間ぐらい稼働することもあります。するとやっぱりFCトラックの充填時間の短さが活きてくる。BEVはどうしても充電時間が必要ですからそんなに効率的に走らせることはできません。MIRAIのスタックを2システム積んで、大きなモーターを組み合わせればバスやトラックが動かせますし、セルの数をかえればフォークリフトにも使えます。

関谷:なるほどMIRAIの技術がすでに転用されていると。そういえば以前、クルーガーのFCEVの試作車に乗せていただいたときに、1台1億円以上するなんていう噂を耳にしましたけど、やはりFCEVというのは今も相当なコストがかかるものなのですか?

田中:それ決してトヨタから発信した話ではないですけど(笑)、やはり試作車の段階では数台しかつくらないわけで台あたりのコストは相当なものになってしまいます。それを解決するには量産効果が必要で、そのためにも先ほどお話したように数を作る必要があるんですね。そして、商用車も含めてFCユニットを広げていく。今はモビリティだけの世界ですが、そこから広がる水素社会のスタート地点を担うのがMIRAIだと思っています。

特許を開放し、競争でなく協調を。

関谷:レースの世界もそうなんですけど、日本はものづくりの技術はあってもそれが世界のスタンダードにはなかなかならない。携帯電話の世界でも日本はガラパゴス化したガラケーで機能競争をしていたけれど、iPhoneが出てきて世界が一気に変わった。彼らはiOSという場をつくって開放して、アプリを競わせるプラットフォーマーになったわけですよね。技術とソフトと、そして政治が一緒になった大きな意味での戦略というものがないと、世界の主導権を握ることは簡単ではないと思いますが、水素社会に向けてそういった取り組みはされていないのでしょうか?

田中:こうした技術って特許もそうですし、競争の源泉として自社で抱えてしまいがちでしたが、今は競争ではなくて協調が大事ということで、特許を無償開放しました。さきほどのトラックやバスもその一環ですが、他の企業の方にユニットをパッケージにして販売しているので他社の方に使っていただくことも可能です。多くのプレイヤーの方に参加していただかないと結果として技術は広がっていかない。仲間作りのところから始めようと動いていますし、それが世界を変えていくのではないかと。

関谷:特に水素のようなエネルギーの場合、国策としてどうしていくのかということでもありますからね。

田中:まさにそうなんです。それこそ、トヨタだけ、日本だけでなく、地球規模でどうしていくべきなのか。2017年にはHydrogen Council(*1)という、水素社会を推進する世界的な枠組みが発足されました。当初は13社で始めたものだったんですが、今は年々参加企業が増えていて、また欧州では、すごい規模のファンドを作って大規模投資が始まっており、アフターコロナの政策としても水素活用が改めて注目されています。日本でも水素バリューチェーン推進協議会(*2)などができてますし、水素の活用に向けての機運がこの数年でとても高まっています。

*1 Hydrogen Council(水素協議会)
2017年にスイス・ダボス会議(World Economic Forum)にてトヨタ自動車を含む13社によって発足した、国際的な水素普及のための協議会。気候変動の目標達成に向け、水素利用を推進する新しいグローバル・イニシアチブ(活動体)であり、現在は、エネルギー・運輸・製造業など90社以上の世界的なリーディングカンパニーが加盟。政策立案者や投資家を促し、水素・燃料電池セクターへの投資の加速化、適切な政策・行動計画の策定・実施の実現を目指している。

*2 水素バリューチェーン推進協議会(JH2A)
水素社会の構築・拡大に取り組む民間企業9社(岩谷産業、ENEOS、川崎重工業、関西電力、神戸製鋼所、東芝、トヨタ自動車、三井住友フィナンシャルグループ、三井物産)が中心となって、水素分野におけるグローバルな連携や水素サプライチェーンの形成を推進する団体。会員企業・団体は195社(2021年3月現在)。地球温暖化対策において中心的な役割を果たすことが期待される水素について、今後も日本が世界をリードし続けるために、様々なステークホルダーと連携して取り組む。


田中:ただ結局のところ、じゃあFCEVって何がよいのかと聞かれたら、環境にいいですよ、排ガスはなくて水しか出ませんよ、というエコロジーな話だけでは駄目だと思っています。お客様に対しての直接的なベネフィットがなければ、広がらないと思うんです。先述したような取り組みなどももちろん必要ですが、そもそもMIRAIの商品としての魅力を向上させようというのがモデルチェンジした本来的な目的ですし、そういう意味で乗り味やハンドリングなどを、関谷さんのようなプロのドライバーの方に褒めていただけたのは、とてもうれしいですね。

関谷:僕が二代目を買ってよかったなと思うのは、車としてのトータルの完成度があがったのはもちろんですが、特に後輪駆動になったこと、あと長距離を走行できるようになったこと。これでポイントが揃ったなと。実際に乗ってみてそのハンドリングの良さには驚きました。知人に感想を聞かれたら、美味しいレストランを見つけたみたいに、うまいぞ、いいぞって、言ってまわっています(笑)。

次世代へ笑顔をつなぐために。

田中:関谷さんにそう言っていただけるなんて、本当にありがたいです。でも、実は後輪駆動になったのは付随的な話なんです。初代のお客様から多かった改善要望の1つが航続距離でした。新型ではとにかく航続距離を延ばしたかった。そのためにいろんなパッケージを考えて、もちろんFFも検討しました。モーターと水素タンクと、燃料電池をどうレイアウトすればいいのか。結果としてFR系のGA-Lプラットフォームにたどり着いたんです。インバーターとモーター、そして2次バッテリーは、同様のプラットフォームを採用しているレクサスLSやクラウンのハイブリッドと同じものを使っています。水素タンクをTの字の形に積んでいますけど、これによって居住性を確保しつつ、スタイリングも向上させることができました。実はMIRAIのタイヤサイズは19インチや20インチと大きく、関谷さんの仕様は19インチですが、どちらのモデルも外径は730㎜以上もありまして、おそらくこれほど大きなタイヤを履いた国産セダンはないと思います。これはカッコがいいからというだけではなくて、室内空間を確保しつつ大きな水素タンクを床下に搭載するために、それだけの最低地上高を確保する必要があったということなんです。

関谷:なるほど、このパッケージじゃないと、MIRAIは成立しないというわけなんですね。僕らの時代には最初は内燃機関しか選べなくて、今ではハイブリッドもあたり前のものになってきた。そしてこれからはFCEV、さらには水素エンジンなんていう選択肢も出てくると思うんです。それを後世に伝えていくことがすごく大事だと感じています。「うちのお父さんはFCEVに乗っているよ」、「排ガスは出なくて、水しか出さないよ」と、子供が学校で言えるようになるだけでも、社会が少しずつ変わってくると思うんです。

田中:トヨタでは、“幸せの量産”をミッションとして掲げていますが、MIRAIは水素社会の実現に向けた最初の一歩です。これをきっかけに水素というものを知り、自分ごととして生活に取り込んでいただけたらいいなと思っています。そして、いつの日か、車を運転する楽しさは失うことなくカーボンニュートラルな世界が実現し、世界中の子供たちの笑顔につながれば、こんなにうれしいことはないですね。

2021年6月取材

The Voice

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