たとえばモナ・リザがルーヴル美術館の特別室ではなく、人が行き交う駅の構内に展示されていたとしたらどうだろうか。やはり特別なオーラを放ち、人目を惹きつけることだろう。本物は環境に依らず、本物だけの存在感を持つ。本物の快適性を追求する車、アルファードに乗って海を渡り、森を抜け、千葉にある施設を訪れた。その施設は、一言で説明するのが難しい。農場であり、公園のようであり、野外美術館でもある。説明は難しいがただひとつ言い切れるのは、そこで育つ作物も、働く人も、展示されるアートも、すべてごまかしのない本物だったこと。本物からしか得られぬ感動を求め、千葉へ。
あくまで私見だが、一度世に発表されたアートの解釈は受け手に委ねられるものだと思う。世の儚さを嘆いた絵画に普遍の美を見出すのも、苦悩する人物の彫像に肉体の躍動を感じるのも、それは鑑賞者に許された自由だ。
一方で、その作品の時代背景や作者の半生、その場に展示されるまでの経緯を知ることもまた、美術を知るために不可欠である。それは自由な解釈の幅が狭まるが、作品を縦に深く掘り下げる行為だ。
突然そんな美術鑑賞論を考えたのは、『KURKKU FIELDS』を訪ねたからだ。それは千葉県木更津の山間部の自然と寄り添いながら、自然と農業と人の営み、そしてアートが不思議に共存する場所だった。自然の中に、そこにあるのが当然のようにアート作品が展示されている。しかしそれは世界的アーティストたちによる本物の作品だ。それがここにある意味、その作品を展示する意味。そんなアートの背景が、この地を訪れると見えてくるのだろう。
私は初夏のある日、アルファードでその地を訪れた日のことを思い出す。
東京湾を渡り、海沿いを走る。房総半島の空は広く、風を切って走る心地よい感覚がシートに預けた体にまで伝わる。海が直接見えなくとも海辺を感じるような爽快なドライブの果てに、やがて車は、山道に入った。この先が目指す『KURKKU FIELDS』だ。
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『KURKKU FIELDS』は、32万平米の敷地の中、農と食とアートをテーマとしたさまざまな体験ができる複合施設。音楽家の小林武史氏がプロデューサーを務める。事前に調べたそんな情報だけでは実像が掴みきれず、私は場内を巡るガイドツアーに参加することにした。その判断は正解だった。
スタッフの小林真理さんに案内され、場内を歩く。
「この鳴き声は雲雀ですね」
「冬になるとシベリアから鴨がやってくるんですよ」
「それはタラノキ。その新芽が山菜のタラの芽です」
目に映るもの、気になること。どんな角度の質問にも淀みない応えが返ってくる。『KURKKU FIELDS』がオープンしたのは2019年秋。その数年前からここで働いていたという小林さんの言葉には、実体験に基づく重みがあった。
「来る前と帰り道で、なにかひとつでも価値観が変わっていたら良い」
そんな言葉が印象的だった。
「ここでかかっている音楽はすべて、代表の小林が作曲した曲です」
いわれて耳に意識を向ける。
地面に埋め込まれたスピーカーから音楽が流れていることに、今更ながらに気がついた。ボリュームが小さいわけではない。メロディもリズムもはっきりと輪郭がある。だがその音楽はまるで鳥のさえずりや風のざわめきのように自然に馴染み、意識に上らなかったのだ。この地の自然や営みを理解していなければ生まれ得ぬ音楽だ。
聞けばプロデューサーである小林武史氏は、現在でも時間を見つけてはこの施設に足を運んでいるという。
そもそもこの『KURKKU FIELDS』は、小林武史氏が2009年に作った有機農場から始まった。施設は徐々に形を広げ、10年後に現在の姿として公開されるようになったのだという。小林武史氏の強い信念と実行力が結実した施設なのだ。
そう考えると、場内にいくつも点在するアートの存在にも深い意味が見えてくる。ただ顕示するためのものではなく、人と環境、人の営みと自然の営みの接点となるような意味が込められているのだろう。
草間彌生のインスタレーション、通称「ミラールーム」は世界各地に展示されている作品だが、屋外に設置されているのはここだけ。合わせ鏡の中で無限に増殖する光輪。それが電気ではなく、自然光で輝いてみえる。
増田セバスチャンの「穴」をテーマにした作品も印象的だ。「穴」というネガティブな存在が、中に入るとキラキラと輝いている。その価値観の転換は、この『KURKKU FIELDS』自体の理念にも通ずる。
偉大なアート作品を屋外に展示することには、保守保全や天候による見え方の違いなどのデメリットもあるだろう。しかしこの環境の中で見ることでしか伝わらないこともある。ここに在ること、ここで見ること。それ自体にアートとしての意味が加わるのだ。そしてそれにより「人の心を動かす」というアートの素晴らしさが改めて発揮されるのかもしれない。
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草間彌生 新たなる空間への道標 ©Yayoi Kusama
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草間彌生 無限の鏡の間-心の中の幻 © Yayoi Kusama
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増田セバスチャン ぽっかりあいた穴の秘密 2019-2020
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増田セバスチャン ぽっかりあいた穴の秘密 2019-2020
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カミーユ・アンロ Derelitta
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草間彌生 無限の鏡の間-心の中の幻 © Yayoi Kusama
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増田セバスチャン ぽっかりあいた穴の秘密 2019-2020
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増田セバスチャン ぽっかりあいた穴の秘密 2019-2020
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カミーユ・アンロ Derelitta
宿泊施設があり、ダイニングレストランがあり、図書館があり、芝生広場があり、遊具がある。野菜が育ち、水牛や羊を飼い、無数の草花が咲く。ジビエを使うシャルキュトリー、場内で採れた卵や乳製品を使うパンやミルク。そのすべてに深い意味が見えてくる。
「art」という単語には芸術作品だけではなく、人工物や人の技巧の意味もある。昔、人が意識せずともサステナブルを実践していた里山の暮らし。そこで受け継がれていた技巧や知恵が、ここでは形を変えて守られているのかもしれない。
「サステナブルって100か0か、ではないと思います。環境はもちろん大事だけど、人には暮らしがあり、欲もある。そこの折り合いをつけ、人と自然が調和していくような暮らしが実は大切なのでしょうね」
小林さんはそう言った。
『KURKKU FIELDS』にはさまざまな虫や動物がやってくる。虫や動物が住みやすい環境を整えるのも、ここのスタッフたちの仕事だ。それは純粋な自然でも人工物でもない環境だろう。しかしこの地が生態系の起点となり、新たな潮流を生み出す中心地となっているのだ。もしかすると、そんな自然と人工物の折り合いの緩衝材としてアートが役立っているのかもしれない。
『KURKKU FIELDS』にあるアート作品は素晴らしいが、美術館のように作品が多くあるわけでも、体系別に区分されるわけでもない。しかしここには、誤魔化しのない本物がある。本当においしい野菜を育てる農業があり、虫や鳥の声に包まれ、素晴らしい音楽が流れ、その中に本物のアートが存在する。そんな空気の中でしか得られぬ発見があることもまた事実なのだろう。すでに知っているものごとを、別の角度から見ることによる発見と、価値観の変化。
自然、環境、アート、人と食。それらが響き合うことで生まれるこの施設での体験は、そのすべてを足した上で、ひとつのアートなのかもしれない。
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