旅においてもっとも費やす時間が長いのは移動と宿泊だ。しかしかつてその両者が旅の主役になることは少なかった。ただ目的地に向かうための移動、ただ疲れを癒すための宿泊。それが変わり始めたのはいつ頃からだろうか。移動や宿泊そのものを本質とする旅。モビリティの快適化は、移動をくつろぎの時間に変え、そして『星野リゾート』に代表される名宿が宿泊を体験に変えた。地域を知り、地域に触れる能動的な旅。そんな新たなラグジュアリーツーリズムを『星野リゾート』は提案し続けているのだ。そんな旅の魅力を探るべく、今回選んだ目的地は、青森県奥入瀬渓流。快適な移動の幸せを追求するアルファードに乗り、『星野リゾート 奥入瀬渓流ホテル』へと向かう。
ほとんど振動を感じさせずに動き出す快適なアルファードの後部座席。まるで移動する書斎といった空間だが、私は仕事を離れ、青森の景色を楽しむことにした。天気は晴れ。カーナビの進行方向には「八甲田山」の文字が見えた。その難所を越えた先が、噂に名高い奥入瀬渓流だ。
日本を代表する景勝地である奥入瀬渓流だが、一般に広く知られるようになったのは明治時代末期、作家・大町桂月が紀行文『奥羽一周記』を発表してからだという。1000年以上前の歌に詠まれる絶景も多いことを考えれば、意外なほど新しい“景勝地”だ。
青森市街から奥入瀬に向かう1時間ほどの道すがら、私には次第にその理由が見えてきた。それは道の険しさだ。緑が濃いこの時期、アルファードのゆったりとした座席にもたれて眺める車窓の景色は、実に清々しい。
だが少し開けた窓から流れ込む冷涼な空気が予感させるのは、この短いひとときを除いた季節の厳しさだ。緑に囲まれた高原も、木漏れ日を落とすブナ林も、1年の半分は深い雪に閉ざされるのだろう。奥入瀬はその道をたどり、八甲田山をぐるりと迂回し、曲がりくねった山道を越えた先にある。交通手段が乏しい時代、簡単に訪れることができる場所ではなかったに違いない。
つまり秘境だ。
長い時間、人目に触れることなくただ在り続けた自然。その事実こそが、奥入瀬の魅力のひとつとなっているのかもしれない。私はまだ見ぬ秘境に思いを馳せながら、そんなかつての難所を、まるでリビングのソファで映画を見ているような快適さで走り抜ける時間を十分に楽しんだ。
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目指す『星野リゾート 奥入瀬渓流ホテル』は、奥入瀬渓流の入口にあった。ロッジ風の三角屋根が目を引く、重厚な建物だ。車寄せにアルファードが滑り込むと、スタッフが駆け寄り、にこやかに出迎えてくれた。扉をくぐるとロビーの奥に、巨大な暖炉が見えた。岡本太郎作によるブロンズ製の大暖炉「森の神話」だという。目に映るすべてが上質。私はホテルの世界観にたちまち惹き込まれていった。
チェックインのためにフロントに向かう。
私はそこで応対してくれた女性スタッフの言葉に方言が混じっていることに気がつき、心が温かくなった。わずかなイントネーションの違いだが、この現地の言葉で迎えられたことで、マニュアルではなく彼女自身の言葉で歓迎を受けているように感じられたのだ。ただラグジュアリーなだけではなく、地域に触れ、感じ、体験する。このホテルのもてなしの心を、改めて感じた瞬間だった。
全187室、東館と西館に分かれた館内は広い。宿泊する「渓流スイートルーム」は3階の奥にあり、行き着くまでに長い廊下をたどる。しかし私はそんな館内の移動まで楽しめた。西館のパブリックスペースにある岡本太郎の遺作・大暖炉「河神」をはじめとした見どころが豊富だ。柔らかな絨毯が敷かれた廊下をやさしい灯りが照らし、まるで木漏れ日の林道を歩いているような気分にさせてくれた。そして館内のさまざまな場所まで、渓流の音が届く。五感が感じる非日常に、改めて旅をしているという気分が高まる。
一面の窓を埋め尽くす緑と渓流の水音。せせらぎと呼ぶには力強いが、その音は不思議と耳に優しい。渓流を見下ろす客室温泉は十分に体を伸ばせるほどゆったりした造り。苔や渓流をモチーフにした設えは野趣に傾きすぎず、風景と室内を調和させている。
しばしソファでくつろぎながら、私はかつてないほどリラックスした気分に浸っていた。その気分の源を探り、やがてひとつの事実に思い至る。ソファもダイニングテーブルもキッチンも広縁も風呂も、どこからでも自然と窓に視線が導かれるのだ。やがて気持ちは、自身が渓流沿いに佇んでいるような錯覚を覚える。上質で快適な室内にいながら、大自然を肌で感じる。その没入感こそが、リラックスの最大の理由なのだろう。
時間を忘れてくつろいでいると、やがて夕食の時間となった。
館内のフレンチレストラン「Sonore(ソノール)」でのその食事もまた素晴らしかった。まずは渓流沿いのテラスでアペリティフを味わってから、室内に移動してコースがはじまる。コースは伝統に則った品格あるフランス料理だが、地元の食材や郷土料理へのリスペクトが強く込められている。シックなテーブルでフランス料理を味わいながら、地域色や郷土の伝統をも垣間見る。それもまた旅情を伝えるおもてなしの心なのだろう。
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ディナーの余韻に浸りながら露天風呂に入り、星空を眺め、眠りに落ちた。
翌朝の目覚めは爽快そのものだった。テラスで渓流の音に包まれて、北欧風オープンサンドの朝食を味わいながら、改めてこのホテルで過ごした時間を思い出す。それはいうなれば、ラグジュアリーな地域体験だ。ホテリエのサービスに、客室のインテリアに、食事に、風呂に、ホテルで過ごすすべての瞬間に、さりげなく潜むこの土地らしさ。その体験になぜか「旅行ではなく、旅をしている」という気持ちが湧き上がった。
朝食後、奥入瀬渓流のガイドツアーに参加した。渓流コンシェルジュの丹羽裕之氏の案内で歩く渓流は、神秘的な美しさに満ちていた。しっとりと水分を含んだ空気、苔やシダを中心とした独特の植物相。渓流の流れは緩急があり、どこを切り取っても名画のようにドラマチックだ。丹羽氏によればこの渓谷は約76万年前の噴火で地盤が作られ、約1万5000年前の十和田湖決壊で谷が形成されたという。その悠久の歴史の中、絶えず流れ続けてきた渓流。心の琴線を揺さぶるような美しさの理由は、人の営みとは無縁の、そのゆったりとした在り方なのだろう。
そして『星野リゾート 奥入瀬渓流ホテル』の姿勢に、そんな渓流への敬愛が貫かれているから、私はこの旅を心から楽しむことができたのだろう。
チェックアウトを済ませた私は昨日来た道を戻るのではなく、奥入瀬渓流沿いを十和田湖まで進み、十和田市経由で帰る道を選んだ。少しだけ窓を開けて、すっかり慣れ親しんだ川音を聞く。包み込むようなアルファードのシートで、あの素晴らしいスイートルームの続きの気分で旅の余韻を楽しんだ。
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